室井先生の元気で明るくてかわいい事ばかりにスポットが当てられるのは少々不満です。やはり「ピアニスト室井摩耶子」です。
先日バッハの話題になりました。
バッハの曲は、右手と左手が順番にメロディーを演奏する輪唱のような形になっています。まるで2人以上の人が話をするような感じなのですが、左手を伸ばしている箇所を先生は「あれは待っているのよ」とおっしゃいました。
でも、そうなるとつい私たちは「待つって、どう弾くんですか?」と聞いて、聞いたらその借り物で一応それらしく弾いて、弾けたってことにしちゃいます。
そうではなく、「待っている」イメージを心で感じながら(感じるまで)左手を伸ばして耳を澄ませてみます。すると、あら不思議、右手の話をじーっと聞いて「待っている」感じがしてきます。そのとき左手は「なるほど、なるほど」って右手の話を聞いているのか、それとも「自分が早く話したい」と思って右手の話が終わるのを待ちわびているのか。それによって次の左手は「言葉を選びながら」入るのか「待ちきれなくてせっかちに」入るのか、などなど物語が変わって来ます。そして、伸ばしてなかったら、右手の話を聞かずにどこかへ行っちゃった感じになっちゃいます。こんなにバッハが豊かになるなんて「待つ」の発見は特許ですね。
室井先生のように1番の人にはその当時「待つ」と教えてくれる人も「で、どう弾くのか」を教えてくれる人も日本にいなくて、自分で探すしかなかった。ヨーロッパに渡る前、日本でピアニストとしての名声をすでに得てみんなに認められていても、自分では「私のピアノは違う」と思ってらしたそうです。でもそれが何かわからない。誰も教えてくれない。そこから先生の本場ヨーロッパでの音楽の旅が始まったそうです。私だったら完全に満足して日本でぬくぬくちやほやされて気持ちよく暮らすとこなのに。。
そして見つけたのがこの「音楽はものがたり」。
音楽は世界の共通語とよく言いますが、言葉に関係なくメロディーが楽しめるという意味で使われていると思います。でも室井先生のおっしゃるのは、まさに言語としての意味で、その台詞が物語を作っているということです。私も同じように、などと言ってはおこがましいのですが、音楽には登場人物がいて、時に人の声であり、心の声も加わり、また風景が変わったり、想像の世界に迷い込んだりする物語だと思います。
今は私でさえそう思うのですから、音楽をそんな風に分析する人も多くいます。
でも、だれもそんな事教えてくれないし、探せるともわからない時代にそんな旅に出るなんて、ロマンあり過ぎです。尊敬します。
そして「それがわかったのは70の頃なの」とか「それは最近わかったことなの」という事を何度もおっしゃっていました。勉強し続けるってこういう事だなと、思い知らされました。
そして「それがわかったのは70の頃なの」とか「それは最近わかったことなの」という事を何度もおっしゃっていました。勉強し続けるってこういう事だなと、思い知らされました。
音楽の神様は、やっぱり一途な旅人が好きなんですね。
先生のおそばには、そのときも、今も音楽の神様がいらっしゃいます。
0 件のコメント:
コメントを投稿