ページ

2016年2月29日月曜日

知の楽しみ

朝、どんな家庭教育がいい教育かという話をテレビでやっていました。

そこで言っていた「英語の張り紙をするとかリビングに勉強机をおくとかは枝葉で、大事な幹の部分は『知る楽しみを教える事』」。

私もそう思います。
知る事は世界を広げてくれます。
楽しみも、そして困った時も。

たとえばパチンコしか楽しみを知らない人はお金がないとパチンコが出来なくて困る。
でも俳句を知る。
そしたらお金がなくてパチンコ出来ないと困っている時も、なんと俳句を楽しめるようになるのです。

音楽もそうです。
自分の好きな曲以外も積極的に聴く、学ぶ、弾く。
これによって世界が広がります。
人間許容範囲が広い方が楽しいことが多いのです。
とくにクラッシックは世界が広い。400年の歴史&世界の国々。

老後は楽しいことが1つでも多い方が幸せです。
今から幸せの貯金をしていって下さい。




2016年2月28日日曜日

原曲講座終了

原曲講座〜音楽史をたどりながら〜講座in松戸が終了しました。
メイン講師がインフルエンザになり、慌てて配役?を変えました。

今回も皆様が選んだNo.1の曲は私たちの予想と違う曲。
No.2もそれなんだ!という曲。
で、この曲いいな、と思ってたのは1票も入らなかったり。
耳馴染みの少ないバロックは前回同様ぜんぜん人気ありませんでした…。

でも諦めません!
バロックも近現代も違和感なく聴いて弾いて頂けるよう、少しずつ皆様のお耳を慣らしていこうと思います。


2016年2月27日土曜日

自然な暮らし


「流行に左右されないシンプルなもので暮らす」というのは「流行に左右されないシンプルなもので暮らすという流行に乗っている暮らし」ですね。結構な事です。流行に乗るのは世のさだめ、人のさだめです。

ただ、必要な物や好きなものだけに囲まれて無駄なく暮らすって行き過ぎだと思います。必要な物と全然必要ないもの、好きな物と全然好きじゃないものが混在して自分は自分と思いながらも時代に左右される無駄のある人生こそ真実だと思います。

必要な物も好きな物も、不必要な物も嫌いな物も、そして自分自身も永遠ではありません。
新しい機能のものが登場すれば心奪われたり、好きな物に飽きたりします。好きでないものも自分の経験や時代、年月でときめく物に変わったりするものです。

人は、必ず時代というフィルターを通して生きています。流行に乗るのはいけない事ではありません。しかし流行に流されて踊らされていると自分を失います。時代には逆らえない事は宿命です。だからこそ自覚が必要だと思います。

いらないものはいつかいるものになるかもしれない。嫌いなものもいつか好きになるかもしれない。そして身近に不必要なものやキライなものがあった方が、新たな自分を発見したり、自身の殻を破れたりと可能性が広がると私は思っています。もちろんゴミ屋敷は問題外です。

働きアリの二割は働かないアリと聞きました。
いらないものや捨てられないものが10割では困りますが、二割くらいのムダのある暮らしの方が自然でシンプルな暮らしだと思います。

消費が国を支えるという本末転倒な経済論には賛成出来ません。
統一感なんかなくてもスッキリなんかしていなくても、物を大事にして消費は控える方がずっと美しいと思っています。













2016年2月26日金曜日

分相応

演奏をしたあと自分の評価が気になりますか?


私はとても気になります。
演奏にしても講座にしても終わったあと「喜んでいただけたかな、、」「あそこが良くなかった…」「本当はもっと良かったはずなんだけど」と、うじうじ振り返ります。

「謙虚ですね」と言われます(笑)。
でもなんかちょっとそれとは違う、と自分でも思っていました。そして昨日ふと気付きました。

結果を気にするのって、実は足るを知っていないってことかもしれない、と。
上手くいってもいかなくても結果は結果、自分の実力通り相応なものでそれで過不足はない。たとえいつも通り出来なかったとしても分相応。
それなのに、実力以上のものを自分に求め、実力以上の他人の評価を求め、だからそのギャップにうじうじしていたのかもしれない、と。


私のようにうじうじ気にする人は、一見謙虚で向上心があるように見えて実は謙虚の逆、自分に分不相応の高い結果を求めていたのかもしれません。
反省は大事です。だから次に備えて出来る限りの準備はする。
でも結果はいつでも「分相応」。だからその結果に足るを知る。


「自分はこんなもの、これで充分、この結果で有り難い」試しにちょっとそのスタンスで臨んでみようと思います。






2016年2月25日木曜日

ミモザ


イタリアでは日本のひな祭りにあたる3月8日にミモザを贈る習慣があるそうです。

桃の花はピンク、ミモザは黄色。
お国柄が出ていますね。




黄色は元気が出る色、お部屋が明るくなります。




2016年2月24日水曜日

いちお、やろう

やる気があるとかないとか全く関係なく
ピアノの前にとりあえず座るようにして下さいと言ってます。


こういうのは思春期の子には絶対通用しません。
「どうして?」「なんで毎日?」「理由は?」「他にやる事あるし」と詰め寄ってきます。
私がそうでした。
「毎日やってもやらなくても変わんないし」。

体感のようなものは説明してもわからないのです。
経験してからでないと理解出来ないのです。毎日やるのと4日に3日やるのと、3日に2日やるのと、違いがわかるのは理屈でなくやり続けた時です。
実際には、4日に3日と3日に2日の厳密な違いは私にはわかりません。
しかし、その1日の差は必ず出てきます。
どういう風に?というと「1日休んでも大丈夫だった」というサボリ癖です。
サボリ癖は、依存性が強く精神を蝕みます。

というわけで、つべこべ言わずやった方がいいのです。
10年後やっとけば良かったと思っても遅いです。

ピアノは鍵盤に触るだけでも違います。
鍵盤の感触や鍵盤の幅は指先しかわかりません。電子ピアノを弾いたあとグランドピアノを弾くとあれ?っと感じますね、家のピアノとレッスンの時のピアノの違いもあれ?っと感じます。頭で電子はこう、グランドはこうとわかっていてもいちいちあれ?と感じる。そういう体感です。

疲れてたり考えなきゃいけない事があるときでもとりあえず座る。
そして半分眠りながら別の事を考えながらとりあえず触る、鍵盤に。
そしてとりあえず楽譜を見ておく。
頭は働かないけど、指に覚えてもらっておく、目を慣らしておく。
10分でも、実りがなくても、それが習慣になる。
サボリ癖の入る隙のない習慣にする。

こういう時は難しくない譜読みとか片手練習を機械的に行うといいです。



2016年2月23日火曜日

音楽史を知ると

「難しいことはいらない」と音楽史を避けていませんか?(笑)


今週末の日曜日に「みんなが弾ける原曲〜音楽史をたどりながら」の講座を松戸市内でしますが、この講座を企画した理由は、第一はアレンジでなく「原曲」を皆様に弾いて欲しいからです。
が、それだけではありません。音楽史を知った上で弾いていただきたいのです。


「そんなめんどくさい、手っ取り早く弾きたい」という声が聞こえそうです。
「自分で弾けるすてきな曲は知りたいけど、音楽史は知らなくていい、興味ない、眼中にない」という方が大方ですからね(笑)。
でも。
「いい曲だから」だけでは弾けないのがクラッシックのいいところ(ヤなところ!?)。
それを知ると知らないじゃ違います。っていうか知らないと弾けてるうちに入りません。
バロック時代の曲はこう、ロマン派はこう、という様式美があります。

たとえば大人の方がバロックを弾かないのはバロックの魅力がわかってないからです。直接訴えかける種類のものでないのでインパクトがなく、なんとなく通り過ぎちゃうんですね。
バロック時代はピアノも今のようなものでなかったし、主役ではなかったので、曲が一見地味です。脇役なので見過ごしてしまう。でもそれこそが魅力。主役は歌だったり教会だったりダンスだったりしたので、自分をどうだどうだと表現してない。といっても曲は複雑に入り組んでいてすごい凝ってて華やか。

それってすごくないですか?
知性がないとこういう役ってこなせないものですよね。
そうです、バロックのピアノはとっても知性的。
その知性あふれる魅力がバロック時代の鍵盤曲なのです。当時はピアノじゃなくてハープシコードだったというのも理由ですが。

学生時代、まったく音楽史を勉強しなかった私には、皆様の勉強したくない気持ち痛いほどわかります。趣味なら余計そう思いますよね。が、音楽史は更に深く味わうために学ぶもの。大人の特権です。

知ると演奏するのが益々楽しくなっちゃいます。知らずに弾いていたのがもったいなくなります。確実に音楽の世界が変わります。

























2016年2月22日月曜日

目で見る音楽

パトリックチャン選手のフリー、圧巻でした。

フィギュアはスポーツなので、ジャンプの難易度は大事です。
でも技術点の高い選手の演技でも、退屈するものはあります。その間にケータイの返事書いたり。
でもパトリックチャン選手の演技は目が離せません。
見れば見るほど目が離せません。

パトリックチャン選手はスケーティングが美しいので、動作が自然です。体が音楽を語ります。体で音楽を解説しているようです。ショート、フリー、エキジビションとも全く違うジャンルの音楽を滑りましたが、それが全部全く違う演技。

音楽に乗せて滑るというより、こういう音楽なんだなと音楽を目で見ているようでした。









2016年2月21日日曜日

上達しないのに

『ピアノ、よく続けているね、エラいね』
(「上達しないのに」)
(「私だったら、そんな下手だったらやめてる。。」)

どうも大人の生徒さんたちにはカッコ内の言葉が聞こえるそうです(笑)。

私も自分で自分のことをよく続けているな、と思っています。
私は続けることによって、ピアノの楽しさはもちろんですが、努力する尊さとかありのままの自分を認める事とか、そんな副産物も得ました。
どんなにカッコつけても弾けばバレます。だったら弾かないという手段もある中であえて弾き続ける。その過程で、これが自分、これでいいんだ、その中で出来る限りの事はしようと開き直りました。
下手だからやめるという人は、下手な自分が嫌いなのでしょうね。

頑張っても出来ない事があるという事実はピアノに限らず何をやってもついて回ります。何か一つのことを長く続けている方はたいていそれを乗り越えています。だから上手下手にこだわり過ぎず続けられる。また上達は人にわかるものだけではありません。音楽のように目に見えないものだと尚更です。

上達しないからやめるという方は、上達するものを探し続けているのでしょう。
それは言うなれば自分探しなのかもしれません。










2016年2月20日土曜日

音楽で元気講座第2回終了

昨日は小金井市の市民講座「音楽で毎日元気に!」でした。

「難しすぎる事は脳が思考停止をするので、ちょっとだけ難しいことを意識的にすると脳は活性化する」というお話をして、リズムや歌、楽譜のお勉強をしました。

私は認知症の方のグループホームで音楽レクリエーションもするのですが、頭を使いながら体を反応させることが認知症の方は本当に苦手です。とてもとても簡単なことをするのですが、めんどくさがって、または出来ない事に深刻になり過ぎてやろうとしません。

昨日ご参加の皆様はちょっと難しいリズム打ちなどにも「やだ〜!出来ない〜!」と笑いながら何回もチャレンジしてくれました。

この違いには驚きます。出来る、出来ないではなく、取り組みの違いです。
逆に「歌を歌う、鑑賞をする」のは、全く違いがないのです。認知症の方も大きな声で正しい音程で歌います。
これは、知っている歌を歌ったりいい音楽を聴くのは精神衛生上はとてもいいけれど、予防にはなってないということですよね。やはり新しい事を面倒くさがらずやるのが大事なんだと痛感します。

とか言ってる私が一番面倒くさがりです。脳科学者でもないのにエラそうに言ってて恐縮です。口だけでは頭も身体も鍛えられませんね。気を引き締めます。


2016年2月19日金曜日

ピアノは試合で勘をみがく

私は「人生は使命である」という熱い思いと「人生はひまつぶしである」というユルい思いを人生に対して持っています。


大人の方に発表会のご参加を勧めると「この程度のピアノじゃ聞かせられない」というお返事が返ってきます。「人に聞かせるためにやってる訳ではないし、、」とおっしゃる方も多いです。

聞かせられるようになってから出ようと思ったら一生出られません(笑)。
人に聞かせることは目標であって、目的でやってるのはプロだけです(笑)。

発表会はスポーツで言ったら試合みたいなもの。でもオリンピックでも世界選手権でもありません。ただ単にスポーツの楽しさを味わうには試合なんです。地域の草野球チームでも普通に試合してますよね。「試合」という取り組みで、スポーツの醍醐味もルールも身をもって覚えます。野球でバッティングやキャッチボールだけでは、上手にはなっても野球とは言えない。コーチの教え通りにやってもそれが全体の中で通用するかわからない。試合では練習とは違う集中力や瞬発力が求められますし、それだけ真剣に取り組めますね。たかが趣味でも真剣に取り組めば取り組むほどなんでも楽しくなるんです。

ピアノの場合は戦うのは相手でなく自分です。人前で成果を出し切ると言えば聞こえがいいですが、ほぼ人前で恥をかくという試合です。
でもそれがあるから頑張れる。それがあるから弱点が浮き彫りになる。
ピアノの勘は発表会で磨くと言って間違いではありません。

どうせ人生ヒマつぶし。たかが人生の1ページ。大それたドラマは必要ありません。
スリルはあるけど失敗しても死ぬわけじゃない。誰かや何かを犠牲にするわけでもない。

弾く事で、みんなと達成感を味わったり励まし合ったり勇気をもらったりする。
自分の心のちょっとした変化で人生は幸せになります。








2016年2月18日木曜日

大人のピアノの年齢の限界

大人からやったらモーツァルトのトルコ行進曲弾けないんですか?何歳が限界ですか?と20代のお嬢さんに聞かれました。

大人、と言うとわかりづらいですね。
何しろ私の大人の生徒さんは20代から90代、70歳差があります。グループレッスンでは平均年齢が65歳です。「何歳が限界か?」と聞かれれば個人差としか言いようがありませんが、「何を限界としていますか?」で答えが違ってきます。

楽譜を読む力、それを伝達する力、それを連動させる力、聴力、瞬発力、集中力…。
これらピアノに必要な能力は残念ながら年齢と共にかなり衰えていきます。いくら人生の経験値が高くてもこれはどうしようもありません。私自身が痛感しています。

この間、銀座久兵衛と寿司アカデミーの寿司の比較をテレビで見ました。
久兵衛の職人さんは、6年シャリ作りだけをしてもまだまだです、毎日その違いがわかってきますと言っていました。その職人さんは、それがとても楽しそうでした。
寿司アカデミーの経営者ももちろん久兵衛さんとは違います、と言ってました。
技術というより、そういう違いを肌で感じられる力の違いが寿司に出てくるのもしれません。


モーツァルトのトルコ行進曲の原曲、全く経験がない楽譜も読んだ事がないピアノには初めて触る方でも楽譜が読めたら60歳からでも弾けます。でも年齢が上がるほどそれが難しくなるのは紛れもない事実です。そして、たぶんご自身の理想とするものとは違うであろうことも事実です。

わかって頂きたいのは、あの曲を弾けるからピアノを習うという捉え方ではピアノが苦しい、という事です。あの曲を弾けるのは目標かもしれませんが目的ではありません。

弾けないことがやめる理由にならないことを願います。

2016年2月17日水曜日

大人がピアノをやめる理由

ピアノをはじめて7年目の大人の生徒さんが「いつまでたってもこの程度じゃやってる意味がないので」とおやめになりました。残念です。

7年くらいやったらショパンやモーツアルトが弾けるようになる、という前提がご自身の中におありだったのでしょうね。真剣に勉強すれば1、2年で資格が取れちゃうものもある世の中、それに比べるとピアノはいつまでも初級。やめたくなる気持ちはわかります。

大人の方がピアノを習うと必ず通るのがこの「上手にならないからやめようかな」という道です。


大人がピアノを初めて習うとき、心に留めておくべきことがあります。
触れば音が出る簡単そうなピアノ。でもピアノは簡単じゃないのです。
小さい時からピアノをやっているのはそれだけ時間が必要な楽器だから。
もし7、8年で好きな曲が弾けるなら遊びたい盛りの子供時代からやっていません。
かと言って「子供のうちからやっとけば弾けたのに、、、」と後悔するのも違います。ピアノという地道で頭を使う習い事は、大人より子供にとっての方が、苦労する全然楽しくない習い事なのです。そして子供のうちからやっても個人差は当然ありますし、子供のうちに習い始めた子の9割以上が小学校でやめてしまう習い事でもあるのです。

指が少し動くようになって、両手も使えるようになって、その位の時が一番楽しくて、その頃はもうそのままずっと右肩上がりで色々な曲が弾けるようになっていく気持ちになります。
ですが。
そのまま上達し続けると思うのは幻想です。夢です。
それは長くは続きません。何より楽譜がどんどん複雑になって、弾く前に弾く気がしなくなります。知らない国の言語のようです。

でも芸事ってみんなそうですよね。
簡単そうに見えて何十年も日々努力して芸を身に付けている。
それを含めての奥の深さが芸術です。
奥深い芸術はそんなに甘いもんじゃない。
そう思った方がいいです。

そんな深いものに触れられる。触れて感動する。上手じゃなくても、憧れの曲は弾けなくても。
私はそのことに学ぶ価値があると思っています。
小学校のときに6年間やった子供の方がもしかしたら技術は身に付いているかもしれない、でも「やりたい」「芸術って素敵」と思う気持ちこそが宝なのです。

上手だから続けるのなら簡単です。
「ピアノが全然上手にならない」というマス目に着いちゃったら「それでも続ける」を選択して下さい。何度でも。その先の未来は新しい景色です。





2016年2月16日火曜日

認知症予防はいつから

「認知症予防は幼児から」

と思います。
体の健康を大事にするのはもちろん、心を育てる、思考する習慣をつけるのは、やはり子供のうちでしょう。

それさえ身に付いていたら音感がなかろうが、勉強ができなかろうが人生を最後まで楽しめると私は思います。

幸せな人生に大事なのがコミュニケーション能力、問題解決能力といった社会性ですが、それを司るのは前頭前野という脳の部分だそうです。
ここはゆっくりと発達し、完成は思春期くらいになるそうです。知識や技術のように目に見えないので子育てをする中では後回しになりそうですね。

ピアノは前頭前野にダントツいいそうです。
といっても子育てをしているお母さんには責任がいっぱい。ピアノを習うにはお金もかかるし時間もないし。
幼稚園や学校教育でもっともっと音楽が取り入れられるといいのですが。






2016年2月15日月曜日

罪滅ぼしその後

「人はどんな罪滅ぼしをするべきか」とずっと真剣に考えてました。


真剣に考えた結果「罪滅ぼしは出来ない」とわかりました。
時計の針は戻せない、とどこかのはったり議員が言ってましたが、人を傷つけたらその傷はもうその人が一生かけたところで癒せないのです。
よく映画とかでも「せめてもの罪滅ぼしなんだ」みたいなセリフがあります。せめてものというくらいですので、気休めでしかないということです。

相手の気持ちを考えて行動しよう、と小学校の道徳で習いましたが、そんなの無理です。それくらいで人間関係上手くいくなんてありっこないです。自分でやられて平気なことでも嫌がる人は沢山いますし、反対もあります。他人のことは永遠にわからないものです。

だから人は人を傷つけてしまうのですね。自分は傷つけているつもりはなくても必ず人は人を傷つけてしまう。罪の大きさに大小はあれ罪滅ぼしが必要なことを皆がしているのです。人は人に迷惑をかけるものなんです。

真面目に考えてやったことなのか、何も考えずやったこなのかは大事だと思います。ただだからと言って、相手が傷ついたことに変わりないのです。その傷を癒せるとしたら傷ついた本人のみです。人にはどんな傷なのかわからないのだから、申し訳ないけれど他人には、傷つけた本人にすらその傷は治せない。理不尽ですが自分の傷は自分で治すしかない。


罪滅ぼしが必要になるようなことはしないように努めつつ、でもしてしまったらごめんねと謝って、そのかわりされてもま、仕方ないか、と思って自分で自分をせっせと癒す。

罪滅ぼし論争に決着がつきました。真剣に考えた甲斐がありました。






2016年2月14日日曜日

人生は短い

「思っているより人生は短いから、今やっていかないと間に合わないわよ」と生徒さん同士でお話していました。

なるほど。
となると私は今何をやっていかないと間に合わないんだろう、と考えてみました。

とこれがないんですね。。
絶対やっておきたいこと。。

私はとても真面目なので、人生を真摯に生きています。でもどこか人生ヒマつぶしみたいなところもあってやるなら楽しい方がいいけど、所詮人生ヒマつぶしだから、やらなかったらやらないでもま、いっかっていう。

皆様がおっしゃっていたことはまさにそこでしょう。
「ま、いっか」じゃなく、ちゃんと人生を楽しんでおいた方がいいですよ!ということですね。
やりたいことがないんじゃなくて探していないだけ、やっていないだけ、やったらきっと今より楽しい、気付いたときにはもう遅いのが人生。
向き合ってそう聞くと、その言葉の重みが違います。


人生にはいいこともあれば思い通りにならないこともある。
長い人生、皆様も苦労や悩んだ時期もあったと思います。何もないっておっしゃっている方だって「何もない私の人生、これでいんだろうか、、」と悩んだかもしれません。

だから「楽しい!」と思えることを見つける、見つけたらやる、今すぐやる。
待っていても幸せはやって来ない。
行動している方は生き生きしていて、ご自身はもとより周りの人をも元気にします。













2016年2月12日金曜日

弾き合い会のお知らせ

3月21日(祭日 月曜日) 10:00〜


都内


ピアノ KAWAI  2KG


定員20名


参加費 会員1000円  非会員1200円


今回からアドヴァイスご希望の方には口頭ではなく講評用紙に記入してお渡しします。



ご参加お待ちしています!

2016年2月11日木曜日

はったり

議員って社会的地位がありますよね。
なんだかエラい人の気がする。

教え子で音大を卒業して議員になった男の子がいます。
彼は昔から「趣味が政治」というくらい本を読み政治に興味を持っていました。
だから今、一生懸命議員をやっています。

でも言っちゃえば国家資格が必要なわけでも知識も教養も人格も家柄も関係なく、言わばはったりでなれちゃう職業です。市民を上手く騙せたら政治に興味がなくても志がなくてもなれなくない、ってことですね。

最近議員の問題がよくニュースになっています。
清原選手の覚せい剤のニュースに混じってその報道を聞くと、その事件の背景には闇もウラもなにもなくて、はったりで議員になれちゃった結果だなあと失笑します。

はったりは悪いことではありません。はったりから始めて、それに見合う実力を付けていくことは成功の定番とも言えます。

でもはったりのまま調子に乗ってそのまま議員の給料で暮し議員年金を受け取っている議員ってたっくさんいるんでしょうね。
会社だったら仕事出来なくて化けの皮がはがれるものを、その機会もなくぬくぬく議会に出席だけして選挙前にハッタリをかます。
町会議員から国会議員まで。

そもそも大人数で会議していいアイディアが生まれるの見た事ありません。
小さな集団でも大きな集団でも。

愚痴を言ってても何もなりませんね。
はったりで政治に首を突っ込みたくなります(笑)。









2016年2月9日火曜日

ピアノとの関係

人と人は気が合うと親しくなります。
更に親しくなると親密な関係になります。
しかし、その蜜月は永遠に続く訳ではなく、やがて「マンネリ」になりそのあとは「競争」になって関係が悪くなるらしいのです。自分の家族になったり親友になると嫉妬やひがみが生まれ、競争意識が生まれてしまうとか。間柄が近いほど密かに激しい闘いになるということです。うーん、恐ろしいです。でもそれを乗り越えると他にはない「強い絆で結ばれる関係」となるそうです♪

言われてみればなんだかわかります。身近な人だからこそマンネリになって感謝も忘れなんでも気に入らなくなってどっちがエラいとか誰が一番大変とか主張するようになって(笑)。それを乗り越えるのは大変です。乗り越えずにあきらめてる人の方が多い気がします(笑)。

じゃあどうしたらその競争を乗り越えられるかというと「もう一度じっくり向き合うこと」だそうです。なるほど、、。ま、それがなかなか出来ないんですけどね。


実はこの競争関係、ピアノにもあると私は感じます。

最初、ピアノは憧れの的。
それが自分が弾く事になって、もうピアノが弾けるってだけで嬉しかった。
そしてどんどん上達する。
自分とピアノとの関係が最高潮に達する。蜜月。
が…。
それがある時から関係がこじれ始める。

「なんで弾けないの?練習してるのに。ピアノは私の気持ちに全然応えてくれない、こんなのも弾けないなんて。私はピアノに向いてないのかも。楽しくない。もう苦痛だけ。ピアノ弾いてる意味ない。。別れよう。。」

人間関係と同じですね(笑)。
少し冷却期間を置いてもう一度じっくりピアノに向かうのもいいのかもしれませんが、
でも、ピアノはやらなくていいものなので、冷却期間を置くともうピアノには戻ることはなくなるでしょう。やむを得ない事情で休んだ方は別ですがこの理由でお休みする方は、ピアノとサヨナラになりがちです。

私がピアノをやめたいと思った理由は上記の「どうせやってもヘタクソだし、、、」というものでしたが、ずっとピアノしかやって来なかったのでやめたら半分自分がなくなるようで怖くてやめられませんでした。そのせめぎ合いの中続けてきました。
そして35、6歳のころ…気付きました。

「才能のある人なんてほんの一握り。その才能のある人だってものすごい努力をしている。練習しないくせに上手になりたいなんて傲慢だった。才能のない私がここまで続けてて来れたのは奇跡。小さいころ憧れたピアノ、それを今やっている、やっていて良かった。下手でもピアノは楽しい」と。

ピアノを初めて30年も経った頃でした。
ようやく私のピアノとの競争関係が終わりました。
今はいい距離感を保ちつつ強い絆で結ばれています。

ピアノがやめたくなったらもしかしたらピアノと競争しているのかも。ピアノを打ち負かしたいと思っているのかも。
そんな時は、今の自分とじっくり向き合ってみてください。ほんとはピアノがイヤなんじゃなくて、何か別のことで努力しても報われなかったことがトラウマになっているのかもしれません。人と比較されて「だったらやらない方がマシ」と悔しい思いをしたことがあるのかもしれません。

そんな時は、なぜピアノを弾こうと思ったのか、ピアノを弾きだした時の気持ちを思い出してください。
ピアノと争う必要はないのです。ピアノは誰にでも開かれています。ピアノは人を選びません。どんなに下手だって楽しい。私が証拠です。

ピアノ以外何も頑張っていない私がエラそうに言えることではありませんが、ピアノも人生も逃げずに向き合うとその先にきっと新しい関係が待っています。












2016年2月7日日曜日

手の込んだお料理

昔は手の込んだお料理を良く作っていました。食べきれないくらい。


今は手の込んだものはまったく作りません。
種類も少ないです。
理由は「そんなに作る理由がない」から。

昔、凝ったお料理を作ることは私にとって「自己表現」でした。料理は、自分の存在意義でありアイデンティティでした。料理は創作活動で、大義名分はありましたが実際は自己満足のためで、食べて美味しいとか食べてくれる人が喜ぶとかぜんぜん二の次(笑)。

自分ではそんなふうに思ってはいなかったけれど、今になって「そうだった」とわかりました。こういうこと沢山あります。

そんな自分をしっかり反省して今は素材を活かしています(笑)。






2016年2月6日土曜日

出来ないことに意味がある

認知症予防には体と心と脳をトレーニングする事が大事と言われています。


シニアの方に音楽の認知症予防プログラムをやると、すでにその3つのトレーニングを「やろうとする人」と「やる気がない人」に分かれてしまっているのを感じます。
やる気がない方に私ごときが「やってみましょう!」と言っても、もう人間が出来上がってるのでやりたくないものはやりたくありません。「これをやったらどんなにいいか」という過度な説明をくどくどして1、2回はやってもらいますが、その後はやりません。子供でないので「ちょっとそこ!真面目にやりなさい!」とは言えません(笑)。

やる気がない、のはどういう事かというと一つは私の事を信用していないのだと思います。もう一つは最近になってわかったのですが「出来ない事」が好きでない。
実際出来る出来ないは全く関係ありません。むしろ、出来ないけどその過程を楽しむという事の方が大事で、やる気のある方は出来るからではなくその出来なさも自分で面白がって自分に呆れつつも笑いながらやってます。私もその皆様の出来なさ具合に一緒に笑います。で、頑張ってやっと「出来た!」となったら喜び合うのもつかの間、さっさと次の「出来ない課題」に挑戦する。

出来なくてもやろうとする方は皆様90になっても認知症にはなっていません。では、やらない方が皆様認知症になっているかと言うとそれはわかりません。やめてしまう方とはその後ご縁がなくなるので統計が取れません。やる気がなかったのは興味なかっただけかもしれないし、何もやらなくても認知症にならない人だっているとは思います。トレーニングが大事とか言ってたって何しろ学説はすぐ変わりますから。

ただ、少なくとも「出来ない!全然出来ない!」と言いながらもやり続けている方々はなっていません。










2016年2月5日金曜日

生ものと生き物

イクラをシャケに育てた友人が、イクラが食べられなくなったと言っていました。
イクラが生き物だと自覚してしまったからだそうです。

確かにイクラをいただくとき、生ものだとは思いますが、生き物だとあまり思わずに食べてしまいます。他のものもそうです。
そもそも命をいただくとか言いながら、「生き物」として実感することなしで食べてしまいます。

テレビを見ているとどこもかしこも美味しいもの特集。お魚もお肉も卵も牛乳も野菜もフルーツもたっぷり。生きていくために食べる事は必要だけど、そこまで食べなくてもいんじゃない?と思います。だって生き物だから、みんな。。

毛皮はもちろん買わないけれど、食品だってそこまで食べなくてもいいと思う。だってそこには大きな犠牲があるから。


最近そんなことばかり考えています。


2016年2月4日木曜日

人間は弱いのか

また清原選手の話ですが。
覚せい剤をやるというのは「人として弱かった」と言いますが、人間みんな弱いですよね。


私も強くはありません。気楽なので弱くは見えないのですが、気が小さいし加えてとても真面目で一本気で気難しいです。なので痛いところを突かれるとガタガタと崩れ去ります。精神的にも身体的にも弱すぎです。でも、人間って何かに対する強い思いがあるとき強くなれる。弱くないとき人はこの「思い」が強い時だと思うんですね。

「愛の深さ」こそ人を強くするものだと私は思います。
自分のためには強くなれなくても愛する人のためなら強くなれる。

清原選手はとても子煩悩のようです。
子供のために愛は強し、を見せて欲しいと思います。


2016年2月3日水曜日

天才の悲しさ

今日オペラの会でカストラートについてお話ししました。
前回のマリアカラスにしても、天賦の才能は、本人の意思とは関係なく人生を思いもよらない方向へと運びます。
カストラートのファリネッリもマリアカラスも成功して地位も名声も得ましたが、多くの事を犠牲にした人生でした。

清原選手が逮捕されたことにとても驚きました。
とても強面で個人的には絶対おつきあい出来ないタイプですが、インタビューなどを聞くと心優しい男性の感じがして、きっといい人なんだろうなと思っていました。

彼も野球の天才と言われています。
小さい時から野球のセンスがよく周りも野球のスター選手になる事を期待し、本人も野球しかやって来なかったと言っていました。

ピアノもそうですが、一つの事を極めるという事は天才でも子供時代も青春時代もすべての時間を注ぎ込まないと出来ない事です。他の事なんて学ぶ機会もなければ学ばせてももらえなかったんじゃないかと思います。
凡人は才能を見つけるとその花を見たくなり、無責任に多大な期待をします。でも、咲かせるのは天才ご本人の努力と多くの犠牲。
天才といえど人間ですから、きっと心が弱くなる時も疲れちゃう時もあったでしょう。でも天才だから続ける。続けられる。才能は誰のためにあるかというと、才能に憧れるわたしたち凡人のためだと思わざるを得ません。そんなふうに期待を背負ってきた人生、天才でいつづける苦しみに胸が痛みます。

清原選手を見ていると、不器用で繊細でなにか寂しさを感じるのは私だけではないと思います。
「なぜ転落したのか?」とテレビで言っていました。転落なんかじゃなくて、天才として野球だけの英才教育の人生を送り始めた時から一歩ずつバランスのいい人生から遠ざかっていったのかもしれません。才能がある人にこそ、全人的な教育が必要なのだなあと思いました。

天才にはたくさん楽しませてもらう分、人としても幸せな人生を送ってほしいです。そうでないと申し訳なさ過ぎます。特に野球が好きなわけでもファンでもありませんが、清原選手には絶対立ち直ってほしいです。







2016年2月2日火曜日

マラソン

マラソンの福士選手がマラソンの魅力はと聞かれ「自分を知ることができて素直になれる」と言ってました。
同じ日にプロフェッショナルという番組で「限界までやり続けると自分を知ることが出来る」と小児科医の先生が言ってました。

自分を知ることが幸せの近道だと私は思ってます。
いい話を聞いた、と思いました。

もう一つ、その小児科医の先生が限界までやると壁を越えられると言ってました。
失敗してもへこたれずやめなければ壁は越えられるのかもしれない、と思いました。
たとえ能力の壁は越えられなくてもきっと心の壁は越えられる。

自分を知る、というのはそういう事かと思います。
素直な自分を目指して頑張ろうと思います。

2016年2月1日月曜日

春は来る

もう2月。
暖かいと言っててもやはり寒い冬はやって来ました。
今が人生の冬のような方もいらっしゃるでしょう。
色々大変な事が重なったり、自分が不幸のど真ん中にいるような気持ちになったり。
どんなに大変かなんて人に話してもわかってもらえません。
苦労って同じことが同じ状況で起こらないとわからないものです。
家族や友人や健康や仕事やお金や男女や年齢や地域や色んな状況。これが同じって人、ほぼいないですから、所詮人にはわかってもらえないんですよね。

でも今は寒くても、冬がちゃんと来たように春も必ず来ます。

今がしんどい方のご苦労はわたしにはわかりませんが、春が来た時に春に気づいて春を楽しむ余裕があるよう身体にだけは気をつけて冬を過ごして下さいね!

春は必ず来ますから大丈夫です!