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2013年11月27日水曜日

ピアノの先生

実感する事があります。それはピアノの先生は『きれいな仕事』だという事。


生ゴミを捨てたり、トイレ掃除をしたり、上司に締め付けられたり、理不尽なクレームに平謝りしたり、真夏の炎天下走り回ったり、真冬の氷点下重い荷物を運んだり、一日中立ちっぱなしだったり、3日徹夜とかそういう事とは無縁の仕事。きれいなドレスを着て、貴族が楽しんだ音楽を奏で、汚いものには触らず、先生と呼ばれ、偉そうな態度で文句を言われないどころか生徒は自分で練習して上手になってるのに先生のおかげですと感謝され、そしてすごく楽しい。こんないい仕事ないです。

しかも。ピアノの先生になるには、国家資格とか難しい資格はいらないのです。極端に言えば名乗ればなれます。きれいな仕事で、ちやほやされて、名乗るだけでなれる。。みんなピアノの先生になりたいですね。

だからピアノの先生はいっぱいいます(笑)。

こんないい事、本当は神に選ばれた人だけしか出来ないはずなのに、いっぱいいて、そのうちの一人が私(笑)。

でもだからこそいつも自分が試されてます。更新しなきゃいけない免許もない分、怠けたらそこまで。だれも引っ張ってくれない。妥協はいくらでも出来るけれどそれをしたら丸裸の王様。しかも、選ばれた人しか出来ないはずの仕事を選ばれてない私が妥協してやってたら、絶対バチが当たる。(あ!このあいだのアレはもしや、、、)

私の代わりにカラスが引っかき回した生ゴミを回収してくれている人。
私の代わりに仕事に謀殺されてストレスを抱えている人。
私の代わりに介護の重労働でへとへとになっている人。
私の代わりに暮らしを良くしようといっぱい頭を使ってくれている人。
私の代わりに世界の平和を守ってくれている人。
これからそんな世界に入っていく子供たち。

そんな人たちが癒され、元気になって、もう一度前を向いて人生にチャレンジする気持ちがむくむくと湧いてくるような音楽を届けられたら、バチは当たらないでしょうか?こんなきれいな仕事をさせていただくのだから、せめてもの恩返しにしっかり自分の音楽力に磨きをかけないといけませんね。自分への戒めと、バチの怖さと半々で。

ついつい練習をさぼりがちな霜月に、初心忘るべからずでした。








2013年11月22日金曜日

晩秋のご挨拶状

新年を控えたこの時期、お身内にお別れのあった方からお知らせが届きます。

若い頃は何でも取り返しがつくと思っていました。
けれど人生にはそうでない事もあると、わかるようになりました。特にこの世ではもう会えない方とのお別れとなると、なす術がありません。

生徒さんとの永遠のお別れも幾度か経験しました。
まだお若い方で「やっておきたいことの一つがピアノだった」というお話をした翌週に事故に遭われ、会えなくなってしまった方もいます。ピアノをはじめて3年くらいでした。

人生の中のピアノがどれほどの比重かは人によって大きな違いがあるけれど、
ピアノをやってよかった、はじめてピアノの会に出会えてよかったと思っていただけるような仕事をしたいと思います。

まじめで突っ走るタイプなので、全員に真面目にピアノに取り組んで欲しく思わず詰め寄ってしまいますが、「頑張るだけがいいわけではない」事も、わかる大人にならないと、いけませんね。






2013年11月19日火曜日

とうがらしリース

青い唐辛子はまだまだベランダにたくさん実っていますが、赤くなった物はまとめて収穫します。
そして来年の新物が出来るまでお料理に使います。
保存は毎年リースにして。使うときだけ取って刻んで。
友人が褒めてくれたのでのせちゃいます。




お隣に映っているかわいい織物は
フィンランドの伝統工芸の織物で
フィンランド人の友人の手作りです。フィンランドの物は素朴だったり、モダンだったり、かわいかったり、素敵でお店始めたいくらいです。







2013年11月18日月曜日

角聖子ピアノ&トークコンサート

角聖子ピアノ&トークコンサートのチラシホームページにアップしました。http://www.hajimetepiano.org/



ピアノ教育者として有名な角先生ですが、今回はコンサートピアニスト角聖子の魅力もたっぷりお楽しみいただける内容です。
おなじみの名曲から日本の曲、ジャズそして正統派モーツアルトのソナタまで、とにかく楽しめるプログラムです。また、合間に『楽しくレッスン』のコーナーもあり、角先生の無敵のレッスンも垣間みられます。

今では当たり前になっている大人のピアノ、昔はピアノは子供のときからやってないと弾けないと言われていました。私が大人の初心者を初めて指導したのはヤマハ音楽教室で22年前。20代後半の方で今も続けて下さっていますが、それ以前は皆無でした。

そんな中、大人から始めてもピアノは楽しめますよ、と広めて下さった第一人者が角先生です。いうなれば大人のピアノの大本山です。それから大人からのピアノの生徒さんはどんどん増えていきました。NHKの趣味悠々「お父さんのためのピアノ塾」で角先生のファンになった男性も多い事でしょう。

でも大人は、子供とは違う学び方が必要で、教える側も新たな気づきや勉強が必要でした。そんな時頼りになったのが角先生のセミナーや本、楽譜。角先生のお名前を知らない指導者はきっといないでしょう。

角先生の言葉は感銘を受ける事ばかりですが、中でも「指導者は指導法を磨くより自分磨きが大事」という言葉は、私たち指導者が特に肝に銘じるべき事と受け止めています。

ここまで指導法を確立された角先生だからこその説得力があります。
「結局音楽を教えるって、マニュアルやハウツーではなく、先生の音楽そのものが勝負ですよ」と言われている気がします。私も言葉でなくピアノで語れる先生になりたいです!


演奏家であり教育家である音楽家、角聖子ピアノ&トークコンサート、
滅多にないチャンスです!ぜひ聴きにいらして下さいね。


2013年11月13日水曜日

わくわく

ピアノが大嫌いだった私が、自らピアノのレッスンに通って、ピアノの先生仲間と楽譜や音楽の話をするのがすごく楽しいって考えられない事です。

ピアノのレッスンでは、曲は一切弾きません。クリニックという感じで脱力や音色を治していただいたり、先生の豊富な楽譜やピアノの知識を教えていただいています。内容については、先生のご了解を得てまたゆっくりさせて下さい。とっても楽しくて、私のところに通って下さっている方もこんな風に感じてくれているといいな、といつも帰り道思います。

いつも連弾をする友人とは今、次にやる楽譜選びをしています。連弾が原曲の曲はそんなにたくさんないので、アレンジものをいろいろ調べてかっこいいのを選びます。と言っても、輸入物でネットでしかなくてすごい高いのに届いてみたら良くなかったという、またここでも無駄がたくさん、、、(涙)。だけど、いい楽譜が見つかったときはラッキー!だし、はじめて音合わせするときはドキドキ!するし、合わせると当然一人で弾くより素敵だし♪ぴったり上手くいったときはヒャッハー!だし、無駄がある分喜びも大きいってことで、、、。

音楽が趣味で仕事で楽しいです。
















2013年11月12日火曜日

無駄が力になるとき

無駄をしたくない気持ちは人間誰もが持っています。
逆に言えばこの『無駄はしたくない』という防衛本能?が、考える力を付けるのではないでしょうか?


ピアノの場合、もう一度やり直すのはと〜っても大変だから、次からやり直さなくてすむように、とよく聞くようになり、集中力が高まり、耳の感性がよくなり、記憶力もよくなり、瞬発力もよくなり、こうだっけ?ああかな?こう弾くんじゃないかと自分で考えるようになり、調べてわかる事は自分で調べるようになり、引き出しも増える。また、短時間でやり直したいので、ささっと出来る『即時反応』が出来るようになる。
これは習慣になって、他の事をするときにも役立ちます。ピアノを習っている子が授業の理解が早いというのは、こんな理由だと思います。

さて、この「即時反応」。
馴染みが薄い言葉かもしれませんが、いわゆる臨機応変に対応する力です。音楽には変化がつきものなので、歌う人に合わせる、場所に合わせる、その時の気持ちに合わせるなど、一度完璧に出来上がっていたとしても場面によって変える事がたくさんあります。「即興演奏」というのもあります。また表現は、指揮者によって変わるし、ピアノソロだって「これはしっくりこない、、、」とやっては変えやっては変える『試し』です。しかもノートに取れるような事ではないので、自分の感覚を研ぎすまして集中するしかありません。これは音楽の宿命であり魅力です。そのためには変われる力(やり直せる力)が必要なんです。

通しで弾くだけでは部分的に変える力や試す力がつきません。
練習でもレッスンでも部分的に自分で考えながら弾く事を大事にしてください。
そして間違えるのを覚悟で一人で頑張ってみて下さい。

あともうひとつ、無駄といえば、他の人のレッスン。
曲こそ違っていても、先生が注意している事はだいたい全員に共通する事。自分で言われるより、他人が言われるのを聞いた方が、客観的になれます。自分よりめちゃめちゃ下手すぎる人でも、圧倒されるくらい上手すぎる人でも、他の人のレッスンを聞く機会があるなら『関係ない』なんて思わず、ぜひ大事に聞いて自分の練習にいかしてください。

無駄こそ力、です。



2013年11月10日日曜日

ピアノレッスン

弾けるようになって来ると、どうしても曲全体を通して弾きたいのが人情。
でもレッスンは「先生に聴かせる」場ではなく「直す」場です。


以前生徒さんに「こんなへたくそなのばかり聴いていて疲れるでしょう」と聞かれました。いえいえ、音楽として聞いていませんから、と答えました(笑)。失礼ながら譜読みの段階は、算数の答え合わせみたいなもんです。習っている方は、レッスンで上手に弾けないとがっかりするし、先生に申し訳ない、と思ってしまうものですが、こういってはなんですが、先生はレッスンに音楽を聴きにいってません。


講師は、完成していない曲を聞いているときは、「♯忘れた」「左の指番号2じゃなくて3」「遅くなっている」「力が入り過ぎすぎ」「リズムが狂っている」というように、その箇所その箇所の間違いを弾き終わるまで全部覚えておいて、弾き終わったらそこを順番に指摘して、どういう風に直したらいいか、を考えてます。

まずはその算数の勉強。最初から表現を考える事が大事、としているのはあくまで一人で完成させられるテクニックをもってらっしゃる方のみの話で、間違いがある段階や何回も止まってしまう段階では通して弾いても表現の勉強は出来ません。

リズムが間違っている状態で、フォルテ、クレッシェンドなどはつけられないですし、指使いがめちゃくちゃな状態で、テンポは上げられません。また次の音はなんだっけ?と考えたり、まだ曲通りに指が動いていなければ当然、軽快に、なんて表現は出来ません。

リズムと指使いが10カ所間違えていたら、とりあえずどちらかだけです。注意するところがありすぎると、指摘したり直している時間が足りなくて中途半端になって、注意を全部は覚えていられず、結局何も修正出来ないことになります。今日はここ、次回はこことなります。

「最初に言ってくれないと間違えて覚えてしまう」と言われますが、間違えて覚えては直す、があたりまえです。最初に何時間もレッスン時間を取れる人は誰一人としていませんので、ピアノでは必死にいっぱい時間をかけて覚えた事をまた時間をかけて修正するのが普通と思って下さい。私も、時間や労力が全て無駄になって「直すのに倍の時間かかってる!」「いっそ、やんなきゃ良かった!」と、どれだけやる気ゼロになったことか、、、。でも実はこの「無駄な練習」が、自分で考える力につながり、音楽の大事な要素「即時反応」にも繋がります。親にずっと付きっきりで教えてもらった人はこれが圧倒的に足りなくなります。

人に勝つより自分に勝つとは、このやる気ゼロに打ちのめされないって事だと思っています。

音楽では『自分で考える力』が本当にものを言います。



2013年11月7日木曜日

音に命

音に命を与えるのは、記憶の中の喜びや悲しみの気がします。

音大卒業後、しばらくリトミックを教えていました。リトミックというと、リズムの勉強というイメージがあるかもしれません。でもそれだけでなく、もっと大きな意味で体で音楽を感じる、表現するという音楽の根本を習得する分野です。

レッスンではこんな事をしていました。
たとえば二分音符に合わせて歩く。
水の入ったバケツを運ぶのと、湯のみにタプタプに注がれたお茶を運ぶのは運び方が違いますね。どっこいしょってなるか、すり足になるか。これをピアノのドの音で弾いてみると全く違った音になります。

また十六分音符に合わせて走る。
遅れてくる人を待ってイライラしているときに見る時計の針の音と、子供の喜ぶ顔を浮かべてお母さんが切るとんかつのキャベツの千切りの音とでは、全然違う音ですね。

イメージするもので音は変わります。

では「イメージ」ってなんでしょう?私は感情の記憶の気がします。湯のみを知っていて、水がタプタプだったら、そうっと運ばないとこぼれる。でもその知識だけじゃ表現は出来ないのです。その状況でなく、その時の緊張した『気持ち』が、イメージを作ります。表現とはまず、気持ちがあってそれを伝えることなのだと思います。

ピアノを習っている子供さんには、ピアノの練習も大事ですが、ぜひこの元になる感情をいっぱい味わわせてあげて下さい。ピアノの音が「ファー」ってわかるより「あくびみたい」って感じる方が役に立ちます。

大人の方は「2拍のフェルマータだから4拍」とか理屈で理解したくなっても、とりあえず理屈はお預けです。一呼吸して「今すぐわからなくていい」とまず自分に言って、そのあと記憶の中にある「ファー」の感覚をゆっくり何か手応えがあるまで探って下さい。(ここで「あくびみたいに弾いて下さい」と言うと、え?じゃあ弱くって事ですか?となりそうで怖いです)

すぐに出来なくていいのです、出来る事より追い求める事に意味があります。自分の体と心で感じた気持ちこそが音に命を与えます。もちろん先生の言うイメージと違っていてもいいのです。




2013年11月6日水曜日

(注)きびしい話 2

[きびしい話]をしたら止まらなくなっちゃったので、またもや苦い本音のお話をさせて下さい。きびしいのが嫌いな方は今日も読まないで下さい。


発表会で上手く出来なかったとき、ほぼ全員の方が「あがって弾けなかった、家では弾けてるのに」とおっしゃいます。けれど、そもそも弾けていない方が99%です。始めからわかっています。ほんとうにあがるだけが理由で弾けない方は1%です。最も「あがっても弾ける曲が弾ける曲」なのであがって弾けなかった、もそもそも弾けない結果です。本番は正直です。理由は曲が難し過ぎる事、そして基礎ができていない事です。


そうとわかっているなら前もって言ってくれれば、、、と思うかもしれませんが、言ってわかることならこんな事は起こりません(笑)。大人の方にこの事を理解していただくのは、ほんとうにほんとうに難しいのです。なぜなら、


•講師から見た「弾けている」と生徒さんが自分で思っている「弾けている」が大きく違うこと。自分の出している音を聴く訓練が十分されていないので、自分がどんな音楽を出力しているかわかっていなくて、とりあえず出力出来ていれば音楽になっている気になってしまいます。


•子供の場合、発表会の曲はほとんどが講師が決めるので、レベルがかけ離れていることはあまりありませんが、大人の方は『こんなのが弾きたい』と思ってピアノをはじめているので、思いが先に立ち、相当レベルが上の曲を選んでしまいます。


•ピアノは地道で根気のいる基礎の積み重ね練習が必要ですが、大人は「人生先が長くない」と思っているので、そんな事をするより、好きな曲だけをやるのが近道と思ってしまっています。子供は将来楽しむために大人は今楽しむために習っています。


•長年培って来た自分のやり方があるので、「弾けないからこっちにしましょう」と、10レベル下の曲をすすめられることに慣れていない上、自分では弾けてると思っているので、やる気がなくなってしまいます。また、子供と違って、下手に曲を知っているので『それらしく』出来たら終わりで根気がありません。


•これは子供も同じですが、音符が多い曲や長い曲が「偉い!」と思ってしまい、そう言うのを弾かないとコンプレックスを感じてしまいます。早口言葉よりやなせたかしさんのわかりやすい詩の方がどれほど心を打つことでしょ
う。


•大人は集中力がありませんので、子供のように練習しないけど本番は良かった、という事は100%あり得ません。一流のスポーツ選手でさえ「普段通りに出来る」ことを目標にするくらい普段通りに出来る事は至難の業なのです。大人は、普段通りには出来ないのを前提に、曲を選ぶ段階、練習の段階から考える必要があります。


•基礎ができていない、の中には上記のもののほか、ちゃんと意識的に力を抜いて弾く事が出来ていないということがあります。家では力が抜けているけど本番は力が入る、という方は本当の意味で脱力が出来ていません。緊張して体が硬くなる、のは動物全員です。大事な場面では普通力は入るものなのです。要するに、弾けてる人は硬くならなくて自分は硬くなるのではなく、弾けてる人は緊張した中でも力を抜ける力をもっていて、自分にはその力が足りないのです。力が抜ける基礎練習をするしかありません。(言っときますが、私は涙ぐましい努力をしています)


「実力にあった曲を弾いた方が、本人も満足するし、聴いている方も楽しめる」というのは講師だけの思いのようです。「先生選んで下さい」という方でも、実際こちらが選んだ曲を前にすると、あまりの簡単さにがっかりされて別の曲を持って来られます。こちらから説得するのはほぼ不可能です。

ただ、大人の方は子供と違って、まだ弾けないような曲に挑戦し、弾けるようになるのも事実です。頭で弾く大人には子供とは別の可能性があることを、知りました。結果的に発表会でどうなるか、そんなこと気にせず賭ける価値が大いにあるのも、大人の趣味のピアノです。


それに、いつも申し上げている通り、聴く人がいる事を押さえてさえいれば何でもありです。人生を楽しむ手段として、表現の手段として、まして自分でお金を出して発表会に出ているのですから、失敗も一人よがりも自由です。結局、自分がどう弾いて、聴いている人がそれをどう思って、だからどうする、という事については、一ピアノ教師が口出しする域を超えています。たかがピアノですが、やり方はその方の生き方そのもので、強制される物ではありません。私がそうだったように、自分で気づいたとき、そうしたかったらする、したくなかったらしない、の大人の選択をするしかないでしょう。



だからこそ、自分は失敗も覚悟で挑戦をしようとしているのか、レベル相当の曲をきちんと弾きたいのか、しっかり自覚して曲を選択した上で、出演されるのが望ましいと思います。そうしたら『こんなはずじゃなかった』というショックは少し軽減されます。

そして何度も言うようですが、「聴いてくださる方」「弾いている方」の気持ちに心を寄せましょう。貴重な時間に自分の下手なピアノを聴いて下さる方への感謝の気持ちと、緊張する中、勇気を持って人前で演奏する方への暖かい応援が、和やかでありながら質の高い発表会を作り出します。
上手でも下手でも、弾きっぱなし、批判づくし、すごいの探し、は美しい音楽と異質のものです。











2013年11月4日月曜日

(注)きびしい話

発表会のあとは思う事がたくさんあります。でもって、とっても辛辣になります。
厳しい事言われるとやめたくなる方は今回は読まないで下さいね。


発表会のあと生徒さんたちは、「上手」な方の話題でもちきりになります。そして「次回は私も少しは難しい曲にチャレンジして、、」などの感想が上がります。

ほんとうの事を言うと、、、心からがっかりします。

なぜなら、その「上手」は音符の数、速さ、長さ「だけ」で評価している事が、変わらず多いからです。音符が多くて強くて長い曲を弾いた方が「上手」になっています。もちろん、速いパッセージは当然速く弾けなきゃダメだし、速く強く弾けるようになるのは、難しいので、すごいのは確かです。でも。

あんなに思いを込めて弾いたあの方の演奏はスルー?、あの演奏が心に止まらなかった?と、短かったけれど、ゆっくりの曲だったけれど、感動をもらった演奏を思います。そして私は、普段レッスンで言ってる事が、どんなに思いを尽くして語っても、わかってもらえてない事を思い知ります。

器用に弾く事や、それらしく弾く事ではなく、その曲の思いを再現するように弾く事の大事さ。会員のNさんが、「作曲家がそこにいたら『うん、うん、そういう曲なんだ、そうやって弾いて欲しかった』と言われるのがほんとうにいい演奏だと思う」とおっしゃっていました。自己顕示や自己満足、自己陶酔でなく、代弁者になること、これはクラッシックの原則です。偉大なピアニストの方全員が言っている事でもあります。

所詮プロのコンサートピアニストではないので、ほんとうは「上手」とか「下手」とか大差ないのです。そう言う意味では、ほんとうは全員下手なんです。自分で「あの人より」上とか「あの人より」下とか思ったところで、アルゲリッチからみれば全員下なんです。アルゲリッチになれない私たちが、難しい楽譜をバリバリ弾いても、とうてい及びません。

だからと言って、自己満足で弾くことのみ、あとは「すごい」のだけ探す、これではカラオケです。カラオケのように自己満足でいいというのには反対です。カラオケはカラオケの楽しみで、音楽会とは違います。聴いて下さる方を考えて曲を選び弾く、緊張して弾いている方の思いに気持ちを馳せて聴く、それが音楽をやる者のマナーです。聴いて下さる方への感謝と弾いている方への敬意が音楽会を作るのです。緊張して人のが聴けない、というのも別問題です。

発表会は自分でお金を出して自分が楽しんだりチャレンジする場なので、本当は何でもアリなんですが、でも音楽として目指すところだけは見失わないで下さい。
目指すのは、ピアニストもどきでも見栄でもなく、その曲らしさと自分らしさです。「ボロは着てても心は錦」。あれ?たとえが全然わかりにくい気もしますが、錦が着れなくても安易にイミテーションの錦を着ようとせず、心は錦に、曲の真意を探り続けましょう。(という意味です)

厳しいようですが、取り繕わず、自分と曲にひたむきに向き合う人の音楽だけが、心を捉えます。恥ずかしいとか下手とか上手とか乗り越えた、それだけが魅力的な音楽です。
どうせみんなほんとうは下手なんですから。


(さずがにここまで言うと、ブログ読んでもらえなくなっちゃうかな、、
 その前に生徒さんと会員さん減っちゃうか、、、)

2013年11月1日金曜日

音楽の耳

以前も『耳』について書きましたが、音楽に必要な耳は、「色」や「触感」みたいなものを感じる耳っていうのに近いんじゃないかと思います。


ミとレの違いでも強い弱いの違いでもなく、
ピンクと水色や、
油絵とパステル画や、
リンゴの手触りと桃の手触りを聴き分けるみたいな、、、。
ますますわかりづらいでしょうか?

ピアノでアドバイスする時、生徒さんは抽象的な指摘が大嫌いなようですが(笑)、音楽が元々抽象的なので、具体的に「小さく」「おそく」と言ってしまうと、違うものになってしまいます。たとえばある和音から短調になっていくところ、「グレーのグラデーションみたいに」のようないい方をすると、「は?もっと小さくって事ですか?遅くってことですか?(そんな抽象的に言われても)」と絶対なりますが、「小さく、遅く」といってレモン色のグラデーションになっちゃうのは違うのです。

また、弱い音=やさしい音、強い音=元気な音のように直接的な言葉にはある種固定観念があるので、それで判断してしまうとつまらない演奏になりがちです。弱い音は単なる頼りない音になっちゃったり、とっても暖かいはずの強い音が乱暴になったり多々あります。

なので、私はどんなに「は?だんだん強くって事ですか?」と質問されようとも、「というより、期待に胸が膨らむ感じです」と言い続けようと思っています。

私の比喩は、体験した事や、絵を見たり、本を読んだり、映画を見たりした時の感情を思い出して使っています。
桜が上からぱらぱら散って来るの見た時の心と海の水しぶきがかかったときの心は違います。そうすると、この十六分音符の連続は、ぱらぱらの桜か、海の水しぶきか、速い遅いではなく、質が違う音になります。また、画家はこんな風に描いている、作家はこんな風に書いている、映画はこんな風に作られている、と素晴らしい芸術作品も見ておくと、捉え方の参考になります。実際のその曲が桜かどうかでも、桜が散るときにどんな音がしたかでもありません。はかなく散る桜に音があったらきっとこんな音、、、潔く散る桜はまた違う音、、、海がもしかしてここで7色になって音があったらきっとこんな音、、、急に映画のシーンが変わってドキっとした自分の気持ちに音があったらこんな音、、、。

「もしも期待に胸が膨らむときに音があったら、、」そんな空想をしてみて下さい。