「持っています!」と手を挙げました。
ついでにブレる力も持っています。
音楽で言う休む力を休符と捉えるなら、確かにそれは力です。その間、だら〜んと休んでいるのでなく、次への緊張だったり、他のパートを待っていたり、難しいんです。休符こそ音楽と言いますもんね。
音楽の場合、このように休符があればメリハリが出来て全体が締まり、もう一度クリアな音の世界が始まります。
しかし、生活の中の休みを力と表現するのはなんかあまりに冷たい感じがします。一生懸命夢のため、会社のため、人のため、自分のため、ブラック企業だと騒ぎをもせず休まず働いているビジネスパーソンに向かって、一人になりたいと叫びたい中一生懸命子育てしているお母さんに向かって、いじめにあいながらも学校で頑張っている子供に向かって、そんな尊敬すべき人々に向かって休んでる人間が休む「力」がないなんて、少なくとも私のように気づけば休んでいる人間は恥ずかしくて言えません。「休まない力」を持っている方に失礼すぎです。
鈍感力という本が出たかと思ったら悩む力という本も出て、変な力争いが盛んです。私は大雑把ではありますが、鈍感でも無神経でもありません。鈍感力に大反対です。大大反対です。悩む力側に付きます。せっかく敏感な人に鈍感になれなんて厚かましいもいいところです。あんたが敏感になりなさいよ、って話です。
小さなことにこだわらない方がラクに生きられますよというつもりかもしれませんが、小さなことにこだわらなくなるためには、鈍感力どころか、もっと小さな喜びをちゃんと見つけられる敏感力が必要です。だいたいこの鈍感力って、傷つけられても、って前提があっての話で、傷つける側を正当化しています。ゆゆしき事です。傷つく側も傷つける側も、人に大切なのは敏感力に決まってます。
休む力が鈍感力のように悪用されなければいいです。休まない力を持っている方は、休む力なんて言葉に惑わされず、休まない力に誇りを持ってください。能力です。才能です。
けれど音楽に休符が効くようにきっと人生にも効く休符。くたくたな方は健康に気をつけて、できればやはり少し休んで下さいね。
喧噪を離れ、太陽の有り難さ、水の美しさだけを感じる日々を思い切って過ごしてみて下さい。もしその時間も取れないならばそんな気持ちにもなれないならば、朝日にだけはあたる。意味はなくても朝日にあたる。ポッキリ折れちゃってても、ちっちゃいままでも植物は朝日にあたって生きて、ある日横から芽を出したりします。
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