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2014年8月13日水曜日

受け入れる耳

同じ事でも耳が開いていないと聞く事ができません。
「腑に落ちる」というのは耳が開いていてこそですね。

私は以前、一人の絶対的な師みたいな人がいてそういう方がすべて教えて導いてくれると思っていました。よく「恩人は○○さんでその方の一言で人生変わりました」という話を聞きますよね。それです。

でもある時気づきました。
一人の人から100助けてもらうんじゃなくて100人の人から1とか2とか10とか助けてもらえればそれで上等なんじゃないかと。それで充分な上、それだけでもどんなに有り難いことかと。そして思えばそうやって沢山の人が自分を助けてくれていたと思い至ったのでした。

そう思ったら一人一人のアドバイスがとても大事でありがたく、また良い意味でその一言をそこまで重くなく無責任に受け止められるようにもなりました。

その頃から少しずつ色々なものに耳が開いてきた気がします。
気持ちが頑であると耳を閉じてしまいます。
心を開いた時初めて耳も開きます。

ピアノがうまくいかないとき、自分の耳が閉じてしまっている事があります。
そんなときは実は気持ちが頑で、先生の言う事を聞き流して自分のやり方を通していたりする事が多いです。

先生の言う事は絶対ではありません。だからこそ100のうちの1を教わるくらいの気持ちで受け入れることです。そこにすべての責任を持たせようと思うと大きすぎて受け入れるか受け入れないかのどちらかになります。それはあまりに依存的で主体性がありません。主体性のない学びは自分の役に立ちません。

時代のギャップ、男女のギャップ、育ちのギャップ、、。
私は勝手なので相手を勝手な人にして「全然わかってないんだから」とすぐ耳を塞ぎたくなります。
でも、すべてを受け入れるのでなく100のうちの1だと思うとまあ受け入れられます。
「自分の意見は絶対だ!」なんて主張する人の意見も100のうちの1として軽〜く受け入れます。

100の軽い意見が積み重なると、自分の思考が変わって、今まで受け流していた事に大事な事があったと気づいたりします。






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