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2016年9月2日金曜日

作品と人格

背徳的な小説や芸術が文化になっているのは確かです。
これが作者自身の経験だったりします。
事実は小説より奇なりの事件を起こしてるのはだいたい本人だったりします。

とても人格者とはいえない作者が美しいものを作り上げる、、。
清く正しく生きている人としては釈然としないでしょう。

作曲家のドビュッシーの作品もそうです。
彼の女性関係は相当なものです。不倫、自殺未遂もろもろ。
でも音楽は美しい。

聖人君子のような人でも心には弱い部分が必ずあります。なぜなら人間だからです。
不倫はしなくても、犯罪はしなくても、誰かに嫉妬したり、自分第一の行動をしたり、人を傷付けたり、動物を傷付けたり、欲に走ったり、美しいわけではありません。
逆に悪事をした人でも、善の部分がたくさんあります。
それが人間です。

ドビュッシーの音楽には、人間の欲深い弱い部分が、現実を全て忘れて美しさとなって存分に出ているように思います。
そして散々お騒がせした人生だけではないドビュッシーの善良な部分、繊細な感情、暖かさ、優しさ、寛容さもまたたくさん現れています。

芸術に昇華させるという言い方をしますが、芸術はポジティブな部分と、ネガティブにさえも光をあてるということ。ネガティブも芸術作品にまで高められたならば、現実のドロドロしたものは消失して、悪さえも美として輝く。

不倫や自殺未遂という過激なところまではいかなくても、世間体がなければ、本能のままに生きていいなら、人を傷つけていいなら、良心の呵責に苛まれないなら、その場しのぎでいいなら、という願望が人間にはあります。
ドビュッシーの音楽には、人間の欲が「現実としてでなく芸術として」輝いているように思えます。


究極の美しさは見れば見るほど、人間の悲しさを感じます。




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